約 1,646,924 件
https://w.atwiki.jp/oerunyo2018/pages/50.html
土休日10両 C運用(C11-C23) 土休日C11(51E) 我孫子出庫 750E 我0734-綾0803 A751E 綾0804-上0843 B851E 上0855-綾0934 851E 綾0935-我1004 1050E 我1013-綾1043 A1051E 綾1045-上1125 準4039 上1128-成1141 喜多見入庫-出庫 各6028 成2115-上2131 B2151E 上2135-北2220 A2251E 北2225上2310 急2253 上2310-向2326 回9272 向2337-成2342 喜多見入庫 土休日C12 喜多見出庫 回9169 成0654-向0700 各6523 向0705-松0822 急1230 松0834-新1005 急1233 新1010-小1148 急1020 小1153-松1206 快3030 松1208-新1329 急2711 新1333-唐1415 唐木田入庫-出庫 回9224 唐2103-経2138 経堂#7入庫 土休日C13 経堂#7出庫 回9151 経0608-大0644 急1507 大0649-藤0712 快3508 藤0720-新0818 快3509 新0823-江0932 快3524 江0950-新1058 快3525 新1103-江1214 快3540 江1230-新1337 急1255 新1343-松1509 急1266 松1520-新1645 快3559 新1649-江1758 快3574 江1809-新1919 急1289 新1923-伊2026 回9216 伊2035-本2040 各6680 本2041-新2203 各6711 新2215-本2345 各6716 本2359-経0057 経堂#4入庫 土休日C14 経堂#4出庫 各6200 経0449-新0506 各6507 新0515-本0630 回9153 本0631-伊0637 回9128 伊0643-本0650 各6516 本0650-新0814 各6547 新0825-松1025 急1242 松1038-新1205 快3531 新1211-江1318 快3546 江1329-新1437 急1261 新1443-松1610 急1272 松1620-新1745 快3565 新1749-江1858 快3580 江1909-新2018 急1293 新2023-小2200 急1064 小2211-本2253 回9256 本2259-海2302 海老名入庫 土休日C15(45E) 海老名出庫 回9177 海0706-本0711 各6010 本0721-上0839 B745E 上0840-綾0919 回B745E 綾0922-北0926 綾瀬入庫-出庫 A1045E 北1009-上1056 準4033 上1059-成1113 喜多見入庫-出庫 各6022 成2035-上2051 B2045E 上2054-北2141 A2145E 北2148-上2236 各6045 上2237-成2253 喜多見入庫 土休日C16 喜多見予備 土休日C17(41E) 喜多見出庫 準4024 成1014-上1028 B1041E 上1029-綾1110 1041E 綾1111-我1140 1140E 我1146-綾1216 A1141E 綾1217-上1258 B1341E 上1309-綾1350 1341E 綾1351-我1420 1440E 我1426-綾1456 A1441E 綾1457-上1538 B1541E 上1549-綾1629 1541E 綾1632-取1709 1740E 取1729-綾1805 A1741E 綾1806-上1846 各6015 上1847-成1902 喜多見入庫-出庫 各6018 成2005-上2022 B2041E 上2026-綾2105 2041E 綾2108-我2137 2140E 我2151-綾2220 A2141E 綾2220-上2300 急2251 上2301-向2316 回9264 向2325-成2332 喜多見入庫 土休日C18(49E) 喜多見出庫 回9129 成0540-唐0605 快3700 唐0610-新0646 急1213 新0650-小0823 快3010 小0837-新1009 回9221 新1013-成1030 喜多見入庫-出庫 準4068 成1555-上1608 B1549E 上1609-綾1649 1549E 綾1652-我1722 1748E 我1727-綾1755 A1749E 綾1756-上1836 急2231 上1837-向1853 回9271 向1900-唐1924 唐木田入庫-出庫 回9236 唐2210-向2232 各6032 向2233-上2258 B2249E 上2258-北2343 綾瀬入庫 土休日C19(63E) 綾瀬出庫 回A1863E 北1849-綾1853 A1863E 綾1854-上1933 急2237 上1937-向1953 各6020 向2006-上2031 B2063E 上2031-北2116 綾瀬入庫 土休日C20(47E) 綾瀬出庫 回A647E 北0622-綾0626 647E 綾0633-戸0643 646E 戸0659-綾0708 A647E 綾0709-上0748 急2205 上0751-向0807 回9193 向0809-海0852 海老名入庫 土休日C21(53E) 海老名出庫 回9111 海0523-本0526 急1206 本0535-新0626 急1211 新0631-小0811 快3008 小0818-新0949 回9217 新0953-向1023 急2905 向1024-唐1045 急2716 唐1053-新1137 快3007 新1141-松1301 急1017 松1304-小1314 急1024 小1317-松1327 快3038 松1328-新1449 急2719 新1453-唐1535 急2750 唐1553-新1635 快3709 新1641-唐1719 回9188 唐1725-向1745 準4090 向1746-上1807 B1753E 上1809-北1857 綾瀬入庫-出庫 A2053E 北2007上2053 各6033 上2056-本2215 回9238 本2225-海2229 海老名入庫 土休日C22(43E) 海老名出庫 回9117 海0527-伊0536 回9114 伊0541-本0547 急2200 本0548-上0637 B543E 上0638-綾0718 543E 綾0718-取0754 842E 取0801-綾0836 A843E 綾0836-上0916 準4017 上0919-向0943 準4022 向0956-上1018 B943E 上1019-綾1059 943E 綾1100-我1130 1142E 我1136-綾1206 A1143E 綾1207-上1248 準4049 上1249-向1311 準4054 向1336-上1357 B1343E 上1359-綾1440 1343E 綾1441-我1510 1542E 我1516-綾1545 A1543E 綾1545-上1625 B1643E 上1643-綾1722 1643E 綾1724-我1752 1742E 我1757-綾1826 A1743E 綾1827-上1906 各6017 上1907-成1923 喜多見入庫-出庫 準4108 成1945-上1956 B1943E 上1957-綾2037 1943E 綾2039-我2108 2142E 我2119-綾2148 A2143E 綾2148-上2228 急2247 上2229-伊2326 回9268 伊2331-海2340 海老名入庫 土休日C23(57E) 海老名出庫 回9102 海0518-大0531 急1501 大0547-藤0613 快3502 藤0620-新0716 快3503 新0723-江0834 快3518 江0850-新0958 快3519 新1003-江1112 快3534 江1130-新1237 急1249 新1243-松1409 急1032 松1420-大1459 回9182 大1501-成1532 喜多見入庫-出庫 準4072 成1615-上1628 B1657E 上1631-綾1711 1657E 綾1712-柏1736 1756E 柏1747-綾1810 A1757E 綾1811-上1851 B1957E 上1901-綾1940 1957E 綾1943-我2016 我孫子入庫
https://w.atwiki.jp/kotokoto2/pages/3823.html
阪神武庫川線 路線データ 阪神電気鉄道(第一種鉄道事業者)武庫川~武庫川団地前:1.7km 駅一覧 本線 駅名 よみかた 接続 開業日 武庫川 むこがわ 阪神本線 1905/04/12 東鳴尾 ひがしなるお 1943/11/21 洲先 すざき 1943/11/21 武庫川団地前 むこがわだんちまえ 1984/04/03
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/27.html
日新火災海上保険 本店:東京都千代田区神田駿河台二丁目3番地 【商号履歴】 日新火災海上保険株式会社(1943年7月~) 東洋海上火災保険株式会社(1925年10月~1943年7月) 東洋海上保険株式会社(1910年8月~1925年10月) 帝国帆船海上保険株式会社(1908年6月~1910年8月) 【株式上場履歴】 <東証1部>1949年5月16日~2006年9月26日(株式会社ミレアホールディングスと株式交換) <札証>1950年4月1日~1951年9月17日(廃止) 【合併履歴】 1943年7月 日 豊国火災保険株式会社 1943年7月 日 福寿火災保険株式会社 1942年4月 日 東明火災海上保険株式会社 【沿革】 明治41年6月 大日本水産会、日本帆船同盟会等の帆船関係者により東京に設立、商号を帝国帆船海上保険株式会社と称す 明治43年8月 東洋海上保険株式会社と改称 大正14年10月 東洋海上火災保険株式会社と改称 昭和17年4月 東明火災海上保険株式会社(明治40年7月東京に設立)を合併 昭和18年7月 豊国火災保険株式会社(明治44年12月大阪に設立)と福寿火災保険株式会社(明治44年1月名古屋に設立)の両社と合併し、現在の日新火災海上保険株式会社と改称 昭和24年5月 東京証券取引所に株式を上場 昭和45年4月 日新火災損害調査株式会社を設立 昭和61年8月 香港に損害保険子会社エイエヌエフ・インシュアランス・カンパニー・リミテッドを設立 昭和62年4月 ルクセンブルグ大公国ルクセンブルグ市に投資子会社ザ・ニッシン・ファイア・インベストメント(ヨーロッパ)エス・エーを設立 平成4年10月 英国領ケイマン諸島に投資子会社ザ・ニッシン・ファイア・インベストメント(ケイマン)リミテッドを設立 平成11年12月 新本社完成 平成12年2月 英国領チャネル諸島ガーンジーに保険子会社ニッシン・インシュアランス・ガーンジー・ピーシーシー・リミテッドを設立 平成14年3月 ザ・ニッシン・ファイア・インベストメント(ヨーロッパ)エス・エーを清算 平成14年3月 ザ・ニッシン・ファイア・インベストメント(ケイマン)リミテッドを清算 平成16年9月 エイエヌエフ・インシュアランス・カンパニー・リミテッド(ホンコン)を清算 平成18年5月 当社と株式会社ミレアホールディングスは、平成18年9月30日付で株式交換により経営統合することに合意。 平成18年9月30日 株式会社ミレアホールディングスの完全子会社となる。
https://w.atwiki.jp/soutoku/pages/45.html
194年 興平元年(漢) 皇帝 劉協(漢献帝) 皇后 (空位) 皇太子 (空位) 三公 太傅:馬日磾(前太尉・録尚書事・192~194)→(死亡)→(空席) 太尉:朱儁(前太僕・193~194)→楊彪(前太常・194~196) 司徒:淳于嘉(前司空・192~194)→趙温(前衛尉・194~208) 司空:張喜(前衛尉・193~196) その他の要職 録尚書事: ■馬日磾(太傅・192~194)→(死亡)→? ■朱儁(太尉・193~194)→楊彪(太尉・194~196) ■趙温(司徒・194~?) 太常:楊彪→ 光禄勳:→ 衛尉:趙温→ 太僕: 廷尉:→ 大鴻臚:→ 宗正:→ 大司農:→ 少府:→ 大将軍: 驃騎将軍: 車騎将軍: 衛将軍: 地方官 司隷校尉:? 冀州牧:袁紹(191~202) 幽州牧:? 并州牧:? 青州:? 豫州刺史:郭貢《後漢書鄭孔荀列伝荀彧》 兗州牧:曹操(前東郡太守) 徐州牧:陶謙(~194)→(死亡)→劉備(194~) 河南尹:駱業《後漢書皇后紀靈思何皇后》 荊州牧:劉表(192~208) 涼州:? 揚州:? 益州:? 交州:? 廱州:? 主な事件 興平元年春正月辛酉、天下に大赦する《後漢書孝献帝紀》 興平に改元する《後漢書孝献帝紀》 帝元服する《後漢書孝献帝紀》有司は長秋宮を立てるべきと奏上する。《後漢書皇后紀靈思何皇后》 興平元年春、曹操は徐州から帰還する。初め。曹操の父の曹嵩は退官後譙に帰っていたが董卓の亂を避けて瑯邪に避難していた。陶謙のために害され、故に曹操は復讎の志をもって東伐に向かっていた。《三国志魏書武帝紀操》曹嵩は泰山の華縣にあった。曹操は泰山太守の應劭に迎えて兗州に送り届けるよう命じた。応劭の兵がいまだ至る前に、陶謙は密かに數千騎を遣わして掩捕せんとした。曹嵩は応劭を待っていて備えを設けていなかった。陶謙の兵が至たり、曹操の弟の曹德を門の中で殺す。曹嵩は懼れて後ろの垣を穿ち、先に妾を出そうとしたが妾が肥えていて出られなかった。曹嵩は廁に逃げたが妾とともに害された。闔門は皆死んだ。応劭は懼れて官を棄てて袁紹のもとに行った。後に曹操が冀州を平定した時、応劭はすでに死んでいた。《三国志魏書武帝紀操に引く世語》曹操は曹嵩を迎えた。輜重は百餘兩だった。陶謙は都尉の張闓に騎二百を率いさせて遣わし送った。張闓は泰山の華において嵩を殺し財物を奪い、淮南に出奔した。曹操は咎を陶謙に帰し征伐する。《三国志魏書武帝紀操に引く韋曜吳書》 二月壬午、皇妣の王氏を霊懐皇后と諡し追尊する。甲申、文昭陵に改葬する。《後漢書孝献帝紀》有司は追尊して王美人を靈懷皇后とするよう奏上した。文昭陵に改葬し、儀礼は敬・恭の二陵に比し、光禄大夫に節を持たせ行司空事が璽綬を奉った。王美人の兄の王斌と河南尹の駱業が復土した。《後漢書皇后紀靈思何皇后》 丁亥、帝は藉田を耕す《後漢書孝献帝紀》 三月、韓遂、馬騰は郭汜、樊稠と長平観で戦い、敗れる。左中郎将の劉範、前の益州刺史[ネ中]劭は戦没《後漢書孝献帝紀》注に引く、前書音義に、長平は阪の名前にて、池陽宮にある。長安とは約50里の距離がある。また注に引く、袁宏紀によれば、このとき馬騰は李確*等が専乱を行っているとして、宗室の大臣である劉焉に使者を遣わした。劉焉は子の劉範に将兵を授けて馬騰に就かす。故涼州刺史の[ネ中]劭は太常の[ネ中]弗の子で、[ネ中]弗は李確*に害されたので仇に報いんと参加した。《後漢書孝献帝紀》 夏六月丙子、涼州の黄河以西四郡(金城郡・酒泉郡・敦煌郡・張掖郡)を分けて廱州を作る《後漢書孝献帝紀》 丁丑、地震《後漢書孝献帝紀》 戊寅、また地震《後漢書孝献帝紀》 乙巳晦、日食あり。皇帝は正殿を避け、聴事を五日間行わなかった《後漢書孝献帝紀》 大いに蝗《後漢書孝献帝紀》 夏、曹操は荀彧、程昱を遣わして鄄城を守る。再び陶謙を討つ。五城を抜き、遂に東海に至る。郯を過ぎて還るとき陶謙の將の曹豹と劉備が郯の東に駐屯しているのを撃ち破る。遂に襄賁を攻拔する。通過したところの多くで殘戮する。《三国志魏書武帝紀操》 張邈は陳宮とともに呂布を迎えて曹操に叛いた。兗州の郡縣は皆応じた。荀彧、程昱は鄄城を保ち、范、東阿の二縣も固守した。曹操は軍を引き返した。呂布は鄄城を攻めたが落せず西進して濮陽に駐屯した。曹操は進軍して攻めた。呂布も兵を出して戰う。先陣の騎兵が青州兵を撹乱し青州兵は逃走した。曹操の陣は亂れた。曹操は馳突で火が出て馬を落ち左手掌を火傷した。司馬の樓異が曹操を助けて馬に乗せ退去した。軍営に曹操が戻ってこないので諸將は浮き足立ったが、曹操は軍を労り、軍中に令して攻める用意を整え、進軍して再び攻撃した。呂布と対峙すること百餘日。蝗蟲が起こり百姓は大いに飢え、呂布の糧食もまた乏しく各々引去する。《三国志魏書武帝紀操》曹操が濮陽を囲んだ時、濮陽の大姓である田氏が寝返ると聞いて、曹操は城内に入ることが出来た。しかし東門が焼かれ、寝返りが嘘だということがわかり、軍は敗れた。呂布の騎兵が曹操と遭遇したがそれが曹操だと分からず、「曹操はどこか?」と聞いた。曹操は「黃馬に乗っているあのものです」と答え難を逃れた。門の火は勢い盛んで曹操は火を突いて脱出した《三国志魏書武帝紀操に引く袁暐獻帝春秋》太祖は陶謙を征伐した際、領東郡太守の惇を留めて濮陽を守らせる。張邈は呂布を迎えてて叛き、太祖の家族は鄄城にあったので惇は輕軍をもって往赴する。途中呂布と遭遇し交戰する。呂布は退き、濮陽に入る。襲得惇軍輜重.遣將偽降,共執持惇,責以寶貨,惇軍中震恐.惇將韓浩乃勒兵屯惇營門,召軍吏諸將,皆案甲當部不得動,諸營乃定.遂詣惇所《三国志魏書諸夏侯曹傳》 秋七月壬子、太尉朱儁が免じられる《後漢書孝献帝紀》 戊午、太常の楊彪を太尉・録尚書事と為す《後漢書孝献帝紀》 四月から七月に至るまで三輔では大旱魃《後漢書孝献帝紀》 皇帝は正殿を避けて雨乞いをし、使者を囚徒に遣わして蕩滌させ、刑を軽くした《後漢書孝献帝紀》、 このとき穀1斛50万、豆麦1斛20万銭と為り、人相食み白骨は積もるに任された。皇帝は侍御史の侯汶を遣わして、太倉の米豆を出させ、飢えた人に粥を作った。日を経ても死者が減らなかった。皇帝は疑って、親しく御座前で粥作りを試みさせ、真実を悟った。これによって尚書令以下省閣に出て謝し、侯汶を捕らえて考査を奏した。詔に曰く、「侯汶を裁くに忍びず、杖打ち50とすべし」と。これ以後全てに徹底され得るもの多かった。袁宏紀によれば、侍中の劉艾は米豆5升で粥を作って盂3杯を満たして見せた。これを尚書に詔して曰く「米豆5升、粥盂3杯を作れる。」《後漢書孝献帝紀》 八月、馮[立羽]羌が反乱し属県を寇ず。郭[シ巳]、樊稠がこれを撃破する《後漢書孝献帝紀》 九月、桑がまた桑の実を生み、人は食べるを得る《後漢書孝献帝紀》 秋九月、曹操は鄄城に還る。呂布は乘氏に至り、そこの縣人である李進に破られ、東に行って山陽に駐屯する。ここにおいて袁紹は人を遣わして太祖に連和したいと説得させた。曹操は新たに兗州を失い、軍食も乏しく、許可しようとしたが、程昱が諌止し、曹操もそれに従った。《三国志魏書武帝紀操》 司徒の淳于嘉が罷める《後漢書孝献帝紀》 冬十月、長安の市門が自壊する《後漢書孝献帝紀》 冬十月、曹操は東阿に至る《三国志魏書武帝紀操》 衛尉の趙温を以って司徒・録尚書事と為す。《後漢書孝献帝紀》 十二月、安定郡・扶風郡を分けて新平郡を置く。《後漢書孝献帝紀》 この歳、楊州刺史劉ヨウは袁術の将孫策と曲阿に於いて戦い、敗れる。孫策は遂に江東に拠る。太傅の馬日磾は寿春に於いて薨る。 是歲、陶謙が死に、劉備が之に代わった《三国志魏書武帝紀操》 誕生者 死没者 劉範(左中郎将) [ネ中]劭(前の益州刺史) 馬日磾(太傅) 陶謙:徐州牧 ▲PAGE TOP 193年<< >>195年
https://w.atwiki.jp/suka-dqgaesi/pages/2053.html
943 :名無しさん@HOME:2008/08/05(火) 02 24 56 O ちっちゃいことですが、自分はスッキリしたので書いてみます。 現在、子供(二才半)はトイレトレーニング中。 三歳までに昼間は出来るようになればいいなと、 保育園の先生と一緒に進めています。 トメは 「(夫)も(夫兄)も一才でオムツ外したのにこの子は」 「おしりスッポンポンにして垂れ流したらいい」 「ミルクやらないで母乳ばっかりだったから、 遅れてるんじゃないの?」(ミルクの時も揉めた) 等子どもの前でも暴言吐きまくり。 あまりに鬱陶しいので、 「じゃあ、ちゃんとオムツ外れるまで会いません!」 と言ってしまいました。 トメは慌てたようで 「そんなの駄目よ…」 とかオロオロして言っていましたが、 子供を連れてすぐに帰りました。 今月、トメの還暦祝で温泉に行くことにしてましたが、 それもキャンセルしました。 「聞き流せ」タイプの夫にも釘を刺し、 子供をトメ家に連れていかない、来ても会わせないように、 と言い聞かせました。 子供を可愛がってくれる良トメだとは思うけど、 親と保育園で進めてるのを横から口出したり、 子供の前で暴言が嫌で、きつい口調になってしまいました。 分かってくれればいいけど。 944 :名無しさん@HOME:2008/08/05(火) 02 31 36 O 全然小さくないよ、GJです。 会えなくなって辛抱たまらん化したトメに、 お子さんを拉致られない様に気をつけて!!! 次のお話→89-20
https://w.atwiki.jp/hiros/pages/52.html
HIRO s杯 2019夏 守護神も参戦!3DS環境最後の優勝は誰だ!? 主催:作戦参謀M ルール:見せ合いありシングルバトル6on6 開催日:2019年8月24日 優勝者:作戦参謀M 参加人数:7人 特記事項 第七世代初のHIRO s杯。 ぐるぐるさんがWi-Fiにて参戦。 ★ リーグ表 ★ 参謀M ポン ミツ ショウ シルド 鴎 ぐるぐる 勝敗 順位 作戦参謀M / ○ 9HMG -WWWW -WWXA -54Y9 × 2LYW -WWWW -WWXA -54YW ○ KTRW -WWWW -WWXA -54YY ○ RK8G -WWWW -WWXA -54Y3 ○ E7CG -WWWW -WWXA -54YP ○ 5B7W -WWWW -WWXA -54HY 5勝1敗 優勝 ポン × / ○ ○ × × ○ 3勝3敗 3位 ミツ ○ × / ○ ○ × × E28G -WWWW -WWXA -5PV8 3勝3敗 3位 ショウ × × × / × ○ × 1勝5敗 7位 シルド × ○ × ○ 2RMW -WWWW -WWXA -5T2C / × ○ 9ACG -WWWW -WWXA -5TSE 3勝3敗 3位 鴎 × ○ ○ × ○ / ○ 894W -WWWW -WWXA -5PVS 4勝2敗 2位 ぐるぐる × × ○ ○ × × / 2勝4敗 6位 ※勝敗が同じ場合の順位は、直接対決の勝者を上とする。 ★ 参加者の使用ポケモン ★ 参謀M カイリュー ヒードラン ドリュウズ アブリボン バルジーナ メガゲンガー ポン ジャラランガ カプ・テテフ メガボーマンダ ランドロス(霊獣) ギルガルド ミミッキュ(Z) ミツ ギガイアス(Z) ギルガルド メガボーマンダ ランドロス(霊獣) ヤドラン カプ・テテフ ショウ アメモース カミツヅギ ベトベトン(アローラ) マリルリ(Z) バンギラス メガリザードンY シルド カプ・レヒレ ガブリアス ナットレイ ミミッキュ カビゴン メガピジョット 鴎 オニシズクモ(Z) ガオガエン メガボーマンダ デンジュモク ランドロス(霊獣) ゲッコウガ ぐるぐる メガハッサム エンテイ ポリゴンZ(Z) ジャローダ ウツロイド ロトム(ウォッシュ) ※wikiの具合が悪く、画像が張れない&表の間隔を整えられないので、当面はこの状態であることご容赦ください。
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/312.html
【商号履歴】 株式会社マルハニチロ食品(2008年4月1日~2014年4月1日マルハニチロ水産株式会社に合併) 株式会社ニチロ(1990年1月1日~2008年4月1日) 日魯漁業株式会社(1914年3月12日~1990年1月1日) 【本店所在履歴】 東京都千代田区有楽町一丁目12番1号(1969年7月~) 東京都千代田区丸ノ内二丁目2番地 東京都中央区(東京市日本橋区)(1921年3月~1969年7月) 北海道函館市(1914年3月12日~1921年3月) 【株式上場履歴】 <東証1部>1949年5月16日~2007年9月25日(マルハグループ本社と株式交換) <名証1部>1949年5月16日~2007年9月25日(マルハグループ本社と株式交換) <福証>1949年6月 日~2007年9月25日(マルハグループ本社と株式交換) <札証>1950年4月 日~2007年9月25日(マルハグループ本社と株式交換) <大証1部>1949年5月16日~2003年5月23日(上場廃止申請) <京証>1949年7月 日~2001年3月1日(取引所閉鎖) <広証>1949年6月 日~2000年3月1日(取引所閉鎖) <新証>1949年7月 日~2000年3月1日(取引所閉鎖) 【筆頭株主】 ↑ 2007/10/01 株式会社マルハニチロホールディングス(親会社) ↑ 2005/03/31 東京海上日動火災保険株式会社 ↑ 2003/03/31 東京海上火災保険株式会社 ↑ 2002/03/31 三菱信託銀行株式会社 【資本金推移】 1955/06/ 22億円 1943/07/ 8810万円 1921/03/ 2570万円(輸出食品株式会社、勘察加漁業株式会社を合併) 1920/02/ 1000万円(増資) 1914/03/12 475万円 1914/03/12 200万円 【合併履歴】 1957年9月 日 大洋冷凍母船株式会社 1943年7月 日 樺太大同罐詰株式会社(1936年11月設立) 1943年7月 日 北千島鱈漁業株式会社(1940年10月設立) 1943年4月 日 太平洋漁業株式会社(1931年11月設立) 1943年4月 日 北千島水産株式会社(1938年3月設立) 1943年4月 日 北日本漁業株式会社(1941年2月設立) 1943年4月 日 日本蟹罐詰株式会社(1941年7月設立) 1943年4月 日 北洋蟹罐詰株式会社(1940年11月設立) 1932年5月 日 北洋合同漁業株式会社(1932年3月設立) 1921年3月 日 輸出食品株式会社(1912年5月設立) 1921年3月 日 勘察加漁業株式会社(1920年3月設立) 【沿革】 明治39年11月 堤清六、平塚常次郎が新潟県三条町に堤商会を設立 明治40年6月 「宝寿丸」にて北洋漁場へ初出漁 明治43年5月 さけ缶詰の製造を開始 大正3年3月 北洋におけるサケ・マス漁業を目的として函館にて、商号を日魯漁業株式会社として設立 大正9年2月 堤商会は輸出食品株式会社を合併し、輸出食品株式会社の商号を継承 大正10年3月 輸出食品株式会社、勘察加漁業株式会社及び日魯漁業株式会社の三社が合併し、日魯漁業株式会社の商号を継承し、本社を東京市日本橋区に置く 昭和20年8月 終戦により、在外全資産を喪失 昭和21年8月 稚内事業所(現、宗谷工場)を開設 昭和21年12月 久里浜支社(現、久里浜工場)を開設 昭和23年5月 久里浜支社石巻支所(現、石巻工場)を開設 昭和24年5月 東京、名古屋、大阪各証券取引所に株式を上場 昭和24年6月 広島、福岡両証券取引所に株式を上場 昭和24年7月 京都、新潟両証券取引所に株式を上場 昭和25年1月 造船・造機部門を分離・独立し、日新造船株式会社(現、ニチロ工業株式会社・連結子会社)設立 昭和25年4月 札幌証券取引所に株式を上場 昭和27年5月 北洋母船式サケ・マス漁業再開により出漁 昭和34年5月 新日本海獣株式会社(現、ニチロ毛皮株式会社・連結子会社)設立 昭和35年6月 広島工場を開設 昭和36年6月 釧路事業所(現、釧路工場)を開設 昭和36年10月 青森事業所(現、青森工場)を開設 昭和37年5月 営業部門の拠点として販売支社を開設(東京、名古屋他)、森事業所(現、森工場)を開設 昭和43年7月 株式会社あけぼの商会(現、ニチロあけぼの商会株式会社・連結子会社)設立 昭和43年11月 宮畜産株式会社を子会社化 昭和44年7月 本社を東京都千代田区有楽町に移転 昭和44年8月 北海道あけぼの食品株式会社設立(現、連結子会社) 昭和46年3月 株式会社函館国際ホテル設立(現、連結子会社) 昭和48年7月 P.T.Alfa Kurnia Fish Enterprise(インドネシア)設立(現、連結子会社) 昭和50年6月 北海道畜産事業部を分離・独立し、ニチロ畜産株式会社設立(現、連結子会社) 昭和54年9月 Peter Pan Seafoods, Inc.(アメリカ)を子会社化(現、連結子会社) 昭和63年6月 母船式サケ・マス事業8社共同経営による1船団出漁 平成元年2月 決算期を11月30日から3月31日に変更 平成元年12月 株式会社ニチロ流通センター設立(現、連結子会社) 平成2年1月 商号を「株式会社ニチロ」、英訳名「NICHIRO CORPORATION」に変更 平成2年1月 N N Foods Co., Ltd.(タイ)設立(現、連結子会社) 平成2年4月 山形工場を開設(現、白鷹工場) 平成6年12月 Golden Alaska Seafoods, Inc.(アメリカ)設立(現、連結子会社) 平成9年2月 山形工場製造二課を新設(現、大江工場) 平成12年2月 株式会社ニチロサンフーズの株式を日本証券業協会に登録 平成12年10月 直営6工場及び本社においてISO9000シリーズの認証取得完了 平成13年3月 業務用チルド食品事業推進のためエヌピー食品株式会社を設立(現、連結子会社) 平成14年11月 冷凍デザート分野強化のため株式会社サングルメを設立(現、連結子会社) 平成15年1月 水産加工拠点強化のため、日照日魯栄信食品有限公司(中国)設立(現、連結子会社) 平成15年4月 冷凍食品製造販売会社 株式会社アクリフーズを子会社化(現、連結子会社) 平成15年10月 中央研究所を神奈川県川崎市に移転 平成16年6月 全直営工場においてISO14001シリーズの認証取得完了 平成16年11月 冷凍食品事業強化のため、ほくれい株式会社を子会社化(現、連結子会社) 平成18年10月 北海道あけぼの食品株式会社の飲料部門と青森工場を統合し、株式会社ニチロサンパックを設立(現、連結子会社)
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/555.html
『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 オランダ公文書館慰安婦関連公文書一覧表 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―オランダ公文書館慰安婦関連公文書一覧表国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie:RIOD] 国立公文書館[Algemeen Rijksarchief:ARA] 外務省[Ministerie van Buitenlandse Zaken:BZ] 1998年6週間に亘り実施したオランダ3公文書館――国立戦争資料研究所、国立公文書館、外務省公文書室――調査で検証した資料のうち、慰安婦に関連した記述があるものを公文書の種類ごとにまとめ一覧表にした。表は、国立戦争資料研究所、国立公文書館(①蘭印高等裁判所検察局公文書1945―1949、②蘭軍情報局、③A.F.X.Vos de Wael)、外務省公文書室の順番でまとめた。 全表を通して、( )には筆者の補足説明を、[ ]には原文の綴りを記載した。綴りは、市町村以上の行政区域、抑留所名以外の固有名詞に付記した。 国立戦争資料研究所[Rijksinstituut voor Oorlogsdocumentatie:RIOD] ※表には請求番号、公文書作成日、ケース発生年、場所の他、短い説明を記載した。 請求No. 頁 作成日(年.月.日) 発生年 場 所 内 容 000003 8 1946.1.8 1944 クンジャラン・キドゥル抑留所 スマラン慰安所への強制徴募。アンバラワ抑留所について。カナリ通り[Kenarilaan]での経験と将校倶楽部について。 000010 2 1946.1.8 1944 同上 同上 000012 9 1946.1.7 1944 スマラン抑留所 慰安所日の丸について。 000026 3 1946.1.12 1944 スマラン スマランの慰安所にいたオランダ人婦女子について。 000238 11 1944 スマラン 抑留所婦女子がスマラン慰安所へ強制的に連れて行かれたことについて。 3 記載なし 1944 同上 同上 2 1945.12.14 1944 同上 同上 2 1945.12.13 1944 同上 同上 1 記載なし 1944 同上 同上 1 1945.12.17 1944 同上 同上 1 1945.12.16 1944 同上 同上 000263 3 1946.4.3 1943-4 ムンティラン ムンティランとマゲランの慰安所へ強制徴募。 000270 2 1944 スマラン 慰安婦用婦女子の選考について。ブラカン・ケブン[Belakang Kebon]通りの中華ビルについて。 003437 4 記載なし ソロ 軍慰安所「フジ・リオカン」(富士旅館?)について。 004006 9 1944 スマラン 慰安所にいる婦女子への手助けについて。 009792 4 1946.3.18 1943-5 ポンティアナック ポンティアナック慰安所設置の情報。数人の証言を抜粋。 016380 2 1946.2.1 モア島 モア島の慰安所へ女性の補充。女性たちは父親の行動に対する処罰を理由にされ慰安所へ連れて行かれた。 016382 2 1946.1.13 1944-5 モア島 モア島慰安所計画者の説明と5人の強制慰安婦と1人の志願者慰安婦に関する情報。 016410 2 1946.7.24 記載なし バリ 地元女性を募集する数々の手法について。 017145 4 1946.6.18 1943 東南セレベス ポマラアとコラカの慰安所にいた女性に関する情報。東京に留学させてあげるとだまされて慰安婦に。 017161 2 1944 マカッサル? 1944年にできた新しい慰安所について。 017333 1 1946.3.19 1944 ジャンビ 女中のインドネシア女性が日本人男性と寝ることを強制されたこと。 018117 1946.11.5 1944-5 スマラン スマランで集められフロレス島へ慰安婦として送られた婦女子について。 018118 1946.12.11 1942 パダン? NEFIS日々報告: 慰安婦に強制的にさせられたオランダ男性の姪についての説明。 018206 2 1947.6.21 1942-5 パダン・パンジャン 1942年発生の少女強姦について。抑留所にて日本人が嫌がらせをおこなう。 パダン・パンジャンにある日本軍レストランでヨーロッパ人が強制され酌婦に。 018346 パダン インド人が慰安所としての機能があったサカリオ・レストラン、旧ソシエテイト・ドゥ・エインドラクト[SocieteitDe Eendracht]で慰安婦周旋。 019186 2 1945.12.15 記載なし マラン地区 レストラン、クラブへメナド人女性を周旋するメナド人とアンボン人の役割。印欧混血人、アンボン人、メナド人25人を使っているメナド人所有の慰安所。 019362 4 1946.7.18 1944 バタビアとクラマット抑留所 スマランからの女性到着。 019424 3 1946.3.27 記載なし スマラン 双葉荘/青雲荘、旧ホテル・ファン・ブラッセル[Hotel van Brussel]軍慰安所にいた1人の女性への救助について。 019429 1946.5.15 記載なし スマラン スマランのレストラン/慰安所について。医療状況。印欧混血婦女子を使い再開。 019448 3 1946.6.15 1943 バンニュワンギとボンドウォソ ボンドウォソにある数軒のホテルやバーを含む慰安所への募集。 019499 1945.11.16 記載なし スラバヤとムンティラン スラバヤの(ヨーロッパ人?) ダンスバンドリーダーが日本人のための「歓楽娘」提供に関与したことについて。ムンティランのケースについて言及あり。 019636 5 1946.3.1 記載なし ポンティアナック 女性関係に関する特警隊規則と慰安所の設置について。当初4軒、後6軒になる。内2軒は軍専用。 019902 2 1946.3.29 1943-5 ポンティアナック 特警隊、海軍慰安所のために女性を逮捕。住宅地に近接したパビリオン[pavilion]にあった慰安所について。インドネシア人女性、中国人女性との結婚禁止について。 020061 3 1945.12.22 スマラン ヨーロッパ人や中国人その他の男女の慰安婦周旋について。慰安所へ連れて行かれた女性について。 022053 28 1946.12.22 1943-5 バタビア 戦犯委員資料。バタビアのガン・ホーニング[GangHorning]慰安所の支配人裁判から裁判資料4点。 025545 3 1946.10.16 1944 スマラン 慰安所への女性選び。 025557 2 1946.6.9 1944 ハルマヘラ抑留所 「志願」と強制慰安婦。 025583 2 1946.3.22 1944 ハルマヘラ抑留所 オランダ人婦女子のスマラン慰安所への徴募 025640 1 1946.2.7 1943 ムンティラン 強制と「志願」慰安婦。 025646 1 1945.12.10 1944 アンバラワ6 婦女子慰安所へ連れて行かれる。 025647 1 1945.12.13 1943 アンバラワ [6] 慰安婦募集について。 025665 3 1946.3.8 1944 アンバラワ6 慰安婦に「選ばれた」女性に関する詳細説明。 025681 2 1946.7.6 1943 アンバラワ6 作成年月日は翻訳年月日であり証言の日ではない。慰安所への女性募集と抑留所の管理。 026502 1945.10.20 1944 アンバラワ4 慰安所ホテル・スプレンディッド[Hotel Splendid]とペンション・ファン・ブラッセル[Pension van Brussel]について。 027091 19 1949.2.18 1944 スマランとムンティラン 判決34/48。抑留所からスマランとムンティランの慰安所へ女性たちが連れて行かれた件に関する裁判。 032514 2 1946.5.11 1944 アンバラワ6 スマラン慰安所への徴募と、慰安所の状況、コタ・パリス抑留所、クラマット抑留所について。 034224 3 1948.2.24 1944 ムンティラン 慰安婦の募集について。 034228 3 1948.2.24 1944 ムンティラン 同上 034232 2 1948.2.25 1944 ムンティラン 同上 034235 4 1948.2.17 1943? ムンティラン 同上 034239 3 1948.2.18 1944 ムンティラン 同上 034348 1948.3.10 1944 ムンティラン 同上 034251 4 1948.2.13 1943-4 ムンティラン 同上 034255 3 1948.3.17 1943 ムンティラン 同上 034258 3 1948.3.16 1943-4 ムンティラン 同上 035054 3 1946.2.13 1944 アンバラワ4 ケブン・ブラカン[Keboen Belakang]の中華ビル慰安所について。慰安所への女性募集について。 035943 27 1948.3.24 1944 アンバラワとスマラン 判決文72/47。抑留所からスマラン慰安所へ女性徴募に関する裁判ケース。 046996 7 1948.9.11 1944 アンバラワとスマラン 判決文72a/47。抑留所からスマラン慰安所への女性徴募に関する裁判ケース。 060921 1944.8.28 1942-3 マランとカリジャティ NEFIS報告書。慰安所について。 060928 スラバヤ NEFIS報告書。慰安所について。 061830 1946.11.11 1942-4 バンドゥン バンドゥンにあった日本人将校用の慰安所とチハッピト抑留所?からの女性たちについて。将校倶楽部に関する記述。 080125 1946.10.21 1944 アンバラワ8 慰安婦募集について。 ―136― 国立公文書館[Algemeen Rijksarchief:ARA] Ⅰ. 蘭印高等裁判所検察局公文書 1945-1949 [Het Archief van de Procureur-Generaal bij het Hooggerechtshof van Nederlands-Indie,1945-1949:PG] ※ 頁の左側に位置する番号は公文書請求番号を示す。一つ一つのファイルには、多数の資料がまとめて入っているため、便宜上a.b.c.等のローマ字を付記した。短文は公文書の内容要約、或いは引用文の日本語訳である。プライバシーの保護を考え名前は伏せ字にした。 情報請求No. 場所 内 容 28 1945年8月までの地域ごとの「容疑者」一覧。英語。含む下記の資料。 28-a ジョグジャカルタ 1人のジャワ人慰安婦/スパイ。1943年の避難報告書から。 28-b スラバヤ 日本人将校用の印欧人女性とインドネシア人女性の周旋をした2人の兄弟について。情報は避難報告書から。 29 地区ごとの「容疑者」一覧。引用文の原文は英語。資料は下記の情報を含む。 29-a マカッサル ある著名なインドネシア人民族主義者。日本当局に協力するため設立した「公共治安監督所」(Balai Pengawasan Keamanan Oemoem)の書記官であった。彼は慰安婦として女性を斡旋した。この情報は1945年6月5日の避難報告書をもとに作成された。 29-b マカッサル 前出の「公共治安監督所」(Balai Pengawasan Keamanan Oemoem)の指導者と市助役について。共済会は女性を慰安婦に提供した。情報は1944年11月28日のもの。 29-c アンボニア ワヤン・スタンブルの元喜劇役者だった容疑者●●●●●●●婦人はアンボニアのバトゥ・ガントゥンにあった軍慰安所の責任者として日本から任されていた。婦人は、この人身売買のため地元の少女を調達しただけではなく、このような目的にジャワ人の少女を向わせたことへの責任はあった。情報は1943年10月の避難報告書より。 29-d アンボン 容疑者はボルネオ島酋長[the headman]の娘。彼女はアンボニアのバトゥ・ガントゥンにあった軍慰安所の責任者●●●●●●●婦人の手伝いをしていた。彼女は、アンボニアの憲兵隊日本人将校●●●●●●●の愛人であった。情報は1943年12月のもの。 30-a 1946年5月10日付けの文書には、日本人男性と関係のあった女性数人に関する情報が掲載。少なくとも1人の女性は、女性たちを日本人将校の手に渡した。 31-a ファイルには、ジャカルタの慰安所にいた女性たちを含め、戦争中の一部の女性達に関する情報が入っている。 31-b ヨーロッパ人女性を調達した2人のヨーロッパ人女性に関する情報。この2人は、ガン・ホーニング慰安所とペトジョ[Petodjo]のハンウェグ[Hanweg]の慰安所の支配人として活動していた。 32-a 日本人に女性を調達した女性達について。モーレン抑留所班長で、バタビアにあったキャピトル[Capitol](劇場?)の支配人について。 32-b 元警察官からのバンドゥンの状況報告。わずかながら慰安婦に関する記述もある。 32-c 既に拘留されている個人の情報。この資料は、強制的に女性を慰安所に提供したことで告発されている2名に関する記述も含む。 65-a 資料Nr.182、(1945年10月26日付け) 記述の一部引用。原文はオランダ語。「私は女性達が家からそして夜劇場から特警[PID]に連れて行かれたこと、また特警の関与で女性を慰安所に補充していたことも知っています。このようなことにあった女性のうちの1人●●●●●●●さんは、その頃この町のコリア通り[Koreaweg]に住んでいました。」 290-a 個々人に関する短い記述を集めたもの。記述の中には、4人のメナド人が周旋屋として(特に慰安所への斡旋)活動していたこと、バンドゥンで1人のオランダ人男性が日本人に女性を調達していたこと、マゲランの一個人が外島の慰安所への女性を募集していたこと等がある。 ―138― II. オランダ軍情報局[Netherlands Forces Intelligence Service: NEFIS] 請求No. 頁数 報 告 日 発生日 発生場所 内 容 BAS/5641 1 1948.4.12 バタビア 曙倶楽部(旧't Hof van Holland)で働いていた1人の女性とその姉妹について、他の情報カード。 約35 1945~48 バタビア 情報カードに名前が掲載されていた(ヨーロッパ人?)女性が、産婦人科の診断書等を提出し自己弁護の説明記載。 BAS/5644 スマラン ホテル・ドゥ・パビリオン[Hotel du Pavillion]で働いていた女性についての短い記述。 BAS/5647 5 1946~48 バタビア バタビアのガン・ホーニング[Gang Horning]桜バーで働いていた女性に関する記述。 BAS/5651 1947.5.25 マラン 日本バー[a Jap bar]で働いていた2人の姉妹に関する記述。 BAS/5654 12 1947~48 スマラン 中国人と日本人がひいきにしていたセダン[Sedane]近郊にあったカロリナ・バーと他のレストランの経営者、キリスト教徒メナド人に関して。 BAS/5660 10 1946~52 バンドゥン 約30人のオランダ人女性とインドネシア人女性がいた慰安所ウェルへーレン[Welgelegen]に関して。ヨーロッパ人女性が支配人をしていた。慰安所はサイパン陥落後閉店になった。 BAS/5664 1 1946.9.7 ソロ ソロ市ヨーロッパ人コミュニティーの世話人の男性が日本人のため(慰安所の記述あり)若い女性を捜す手助けをしていた。 2 1946.5.28 サラティガ シン・コー・カン、バーク・エン・ダル[Berg en Dal]婦女子抑留所で抱えた問題についての説明。問題には、「道徳心に乏しい」女性と抑留所の周辺に散らかっていたコンドームがあった。「道徳心に乏しい」女性は一覧されている。 BAS/5693 5 1946.9.14 マゲラン 憲兵隊と共同で他州の慰安所へ女性を徴募した1人の男性について。 Bes/3/ 2 1947.1.13 1944-5 チハピット抑留所 日本人バーで働いていたある抑留者の日本人との関係。 Bes/5/ 5 1946.5.12 記述無 スラバヤ 慰安所へ女性を送る。 Bes/12/ 記述無 Prt.10/L:日本人に数人の女性を渡した人物の名前。 トゥレテス Prt.14/L: 1つの館にいた抑留者女性20人と印欧混血人女性9人を管理したインドネシア人について。売春に関しては不明であるが、戦後6人が妊娠した。 BM/1123 2 1946.5.27 1944-5 ゲンダンガン抑留所 抑留所からスマランの慰安所へ連れて行かれた1人の女性の証言。 BM/1124 1946.5.28 1943 同上 スマラン慰安所用に徴募された女性(年齢18歳以上)について。 BM/1125 1 同上 1943 同上 同上 BM/1126 1 同上 1943 同上 スマラン慰安所用に徴募された女性(年齢15歳以上)について。 BM/2469 1946.8.21 マラン 女性の補充に関与した1人のヨーロッパ人男性に関する記述。 BM/2743 1946.8.30 バタビア 日本人と共にバーや慰安所へ行った1人のオランダ人男性について。男性の叔母は慰安所を経営、若い女性を慰安所で働かせるため欺瞞しようとした。 BM/2824 1946.9. マラン 日本人の為に女性を捜した1人のヨーロッパ人女性について。 BM/2825 1946.9.4 1942 マゲラン 1942年に慰安所になった数軒のホテルについての記述。これらのホテルの経営者また支配人(含む1人のチェコ人、1人のスイス人)は女性を周旋また補充した。 ―139― III. A.F.X. Vos de Wael 公文書コレクション ♯ 報告日 記述されている場所 発生日 内容 1 1946.3.19 ボンドウォソ、ジェンベル 1942-3 女性の募集。 2 1946.3.21 ハルマヘラ抑留所 1944 慰安所のために強制慰安婦と志願者の徴募。 3 1946.3.14 スマラン 1942-5 スマランのオランダ人の若い女性の性病と中絶について。これらの女性は他の(オランダ人)女性によって日本人の為に集められた。 4 1946.3.15 バンドゥン 記載無 ウェルへーレン[Welgelegen]慰安所のオランダ人責任者。 5 1946.3.18 アンバラワ第8抑留所 1944 慰安所への女性徴募に対する抵抗。 6 1946.3.25 ボンドウォソ、ジェンベル 1942-5 ジェンベルのホテル・ボンドウォソ/ジーン・ポール[Jean Paul]に日本人用バーの設置。日本人にヨーロッパ人女性と印欧混血人女性を提供。 7 1946.4.1 ソロ抑留所 1944 慰安所への女性徴募に対する抵抗。 8 1946.3.18 アンバラワ第9抑留所 1944 慰安所への女性徴募と後日起こった抵抗。 9 1946.3.25 ムンティラン 1943 慰安所への女性徴募。 10 1946.6.5 バダビア 記載無 慰安所の「ハウス・キーパー」としての女性の募集。通訳はドイツ人女性。 11 1946.3.30 ソロ抑留所、ハルマヘラ抑留所 記載無 ソロ抑留所で慰安所への女性募集に対する抵抗という風説とハルマヘラ抑留所での慰安婦募集。 12 1946.3.29 ブロラ 1942 1942年5月強姦事件。 13 1946.3.29 スラバヤ、ゲダンガン 1942-4 日本人の為に女性周旋に関与したスラバヤ所在ホテル・ブリストル[Hotel Bristol]とバーの西印度人支配人と他のオランダ人。慰安所への女性の徴募はゲダンガンで1944年2月。 14 1946.3.17 アンバラワ第1/6抑留所 1944 1944年2月に慰安所用に女性募集。 ―140― 外務省[Ministerie van Buitenlandse Zaken:BZ] ※1つの公文書番号の中に幾点もの文書が収めてある為、便宜上ローマ字を付記した。 公文書請求番号: Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer 1 報告日 情報資料 発生場所 内 容 a 1946.8. 女性を斡旋したオランダ人男性の取り調べ依頼の書簡(下記の公文書請求番号voorlopig nummer 7, 文書d参照)。詳細の記載なし。 b 1946.7.26 スラバヤ 書簡。オランダ人男性が「海軍の慰安所設置の為日本人に手を貸し女性を集め強制的に慰安婦にした」という記述。 男性は1944年7月捕虜収容所にて死亡。 公文書請求番号:Nefis/CMI 1942-1949, Voorlopig nummer7(42) Betrouwbaarheidsonderzoek 2 226a/938d 報告日 情報資料 発生場所 内 容 a 1946.9.10 NEFIS Ri/260/Geh. スラバヤ ある女性が将校倶楽部を開店しなければいけなかったことについて他のオランダ人女性からの報告。 b 1942.5. IGPGK バリ バリ人官吏報告書。デンパサールに電話で日本人将校用に10人の女性を補充するように(毎日?)命令があったこと。 c 1946.5.19 Nefis No.4087/AB2 バンドゥン? 日本人への女性周旋屋について。詳細記述なし。 d 1946.9.20 Nefis宣誓書 チマヒ 1人のオランダ人男性について。その男性がチマヒ近郊のチサルアにあった山荘ホテル、デ・ウィタ・ウィッケン[De Witte Wieken]の支配人あるいは経営者であったかとの質問。また、抑留される(1942年11月)以前、日本人にヨーロッパ人女性を含め、女性を提供したことはあるかとの質問。ベルヘルスト[Berglust]ホテルの記述もある。文書作成者はこの情報は真実ではないと疑っている様。 e 1946.9.4 H宣誓書 バリ バリ人官吏が日本人へ女性を斡旋したことに関与したことについて。 f 一連の短い報告書 バンドゥン 1944年4月から45年6月までバンドゥン市のコンコーディア(社交倶楽部)で働いていた「サービス・ガール」に関する一連の短い報告書。1945年6月、その女性が泥酔し、はめをはずしたため辞めさせられた。明らかに、日本人と性的関係を持ったことはなかった。 ―141― 注へ 【目次】
https://w.atwiki.jp/sysd/pages/9.html
第一銀行 本店:東京都千代田区丸の内一丁目6番2号 【商号履歴】 株式会社第一銀行(1948年10月~1971年10月1日株式会社日本勧業銀行に合併) 【株式上場履歴】 <東証1部>1949年5月16日~1971年10月1日(株式会社日本勧業銀行に合併) <大証1部>1949年5月16日~1971年10月1日(株式会社日本勧業銀行に合併) <京証>1949年12月 日~1971年10月1日(株式会社日本勧業銀行に合併) <広証>1951年3月 日~1971年10月1日(株式会社日本勧業銀行に合併) <札証>1950年4月1日~ 年 月 日(廃止) 【合併履歴】 1964年8月 日 株式会社朝日銀行 【沿革】 1873年6月 第一国立銀行設立。 1875年8月 渋沢栄一が頭取に就任。 1884年 李氏朝鮮国政府と契約し、釜山、仁川、元山で海関税取扱。 1896年9月 国立銀行条例による営業が満了し、株式会社第一銀行に改組。 1902年 韓国で第一銀行券を発行。 1909年11月 株式会社韓国銀行(のちの株式会社朝鮮銀行)に韓国での中央銀行業務を譲渡。 1912年9月 株式会社二十銀行を合併。 1927年4月 株式会社東海銀行を合併。 1931年10月 株式会社古河銀行を合併。 1939年 国際信託株式会社を買収。 1940年4月 子会社、国際信託株式会社を第一信託株式会社に商号変更。 1943年4月 株式会社三井銀行と合併。株式会社帝国銀行設立。 1948年10月 株式会社第一銀行設立。株式会社帝国銀行の旧株式会社第一銀行の資産を継承。 1954年 株式会社東京銀行より一部店舗を譲受。 1962年12月 子会社の第一信託銀行株式会社、中央信託銀行株式会社に信託業務を譲渡し、株式会社朝日銀行と改称。普通銀行(地方銀行)に転換。 1964年8月 株式会社朝日銀行を合併。 1969年1月 株式会社三菱銀行と合併を発表したが白紙撤回。 1971年10月 株式会社日本勧業銀行に合併。 【系図】 ◆第一銀行(1971) ↑朝日銀行←第一信託銀行←第一信託←国際信託(1964) ↑織田信託(1943) ↑東京銀行の一部店舗(1954) ↑帝国銀行(旧三井銀行、旧十五銀行の資産を除く、1948) ↑十五銀行←第十五国立銀行(1944) ↑商工銀行←商工貯金銀行(1922) ↑四十九貯金銀行(1908) ↑津田銀行←周陽銀行(1921) ↑神戸川崎銀行(1920) ↑浪速銀行←第三十二国立銀行(1920) ↑富国銀行(1919) ↑馬関商業銀行(1918) ↑和歌山銀行(1909) ↑大阪商工銀行(1901) ↑大阪共立銀行(1900) ↑大阪明治銀行(1899) ↑第五銀行←第五国立銀行(1898) ↑第百四十二国立銀行(1881) ↑第百三十一国立銀行(1881) ↑丁酉銀行(1920) ↑三池銀行(筑邦銀行、肥後銀行買収分を除く、1943) ↑瀬高銀行(1926) ↑三井銀行(1943) ↑※三井住友グループ参照 ↑第一銀行←第一国立銀行(1943) ↑麻布銀行(1941) ↑鉄業銀行(1941) ↑渡辺銀行(1938) ↑古河銀行←東京古河銀行(東京貯蓄銀行、昭和銀行、日本昼夜銀行買収分を除く、1931) ↑千住銀行(1924) ↑東海銀行(1927) ↑八十一銀行(1921) ↑佐野商業銀行(1919) ↑四十銀行←第四十国立銀行(1918) ↑館林貯蓄銀行(1917) ↑四十一銀行←第四十一国立銀行(1918) ↑京都商工銀行(1916) ↑第四十九銀行←第四十九国立銀行(1908) ↑二十銀行←第二十国立銀行(1912)
https://w.atwiki.jp/winspww2aar/pages/74.html
ドイツ:ジェネレイテッドキャンペーン(Generated Campaign) ジェネレイテッドキャンペーンドイツプレイ@クルスクAAR by tokiedian P1ドイツ、P2・P3・P4ソ連。1943年7月から1943年8月。20戦。デフォルトマップ。難易度Easier ジェネレイテッドキャンペーンドイツプレイ@ポーランド戦AAR by tokiedian